思春期心性

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 美少女ゲームのプレーヤーは、視点人物と同一化し、物語世界内に埋没しているときには、女性キャラクターの反応に一喜一憂し、「わたしとしてのリアリティ」を捜し求め繊細な擬似恋愛を生きている。そこで私たちは、自分自身キャラクターとなって、一回かぎりの人生を歩んでいる(少なくともそう錯覚している)。だからこそ、ササキバラが注目したような「責任や主体性」の感覚が生じる。
 しかし、他方で、物語世界内への埋没から離れ、プレーヤーとして複数のシナリオを俯瞰し、コンプリートを目標としてセーブデータの効率的な管理に頭を悩ませているときには、キャラクターはもはや単純な攻略対象でしかない。そこで私たちは、虚構の外部にいる人間として、キャラクターの身体(グラフィクス)に対してなんの罪悪感も抱かずに性的視線を向けることができる。

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 『動物化するポストモダン』で記したように、美少女ゲームのユーザは、ひとりのキャラクターと擬似的に恋愛し、泣き、笑い、責任を感じておきながら、同時にほかのキャラクターにも燃えることができる。その節操のなさ、同書の表現を借りれば「解離」(多重人格性)が彼らの本質である。そのメンタリティは思春期の男性であればだれでも備えているものだが、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの分離を特徴とする美少女ゲームは、その解離を構造的に強化してしまう。
 解離を解離のまま受け入れること、自らの分裂をはっきり認識することは、ひとつの倫理へと繋がる。しかし、オタクたちの多くは、むしろ、その分裂を強引に埋め、アイデンティティを捏造している。そこでしばしば使われるのが、「ダメ」という言葉である。私たちは「ダメ」だから、父になるつもりはないけれどオヤジ的欲望は抑えられない、と彼らは自虐的に語る。彼らは、二つの基準のあいだを恣意的に往復し、一方では少女マンガ的な内面に感情移入しながら、他方では一般のポルノメディアをはるかに凌駕する性的妄想に身を委ねる。

 プレイヤー・レベルとキャラクター・レベルの解離について、「思春期の男性であればだれでも備えているもの」と記述されているが、まさにこのことが僕の病を的確に表現しているように思われる。
 「職場で働く私」はキャラクター・レベルの私のこと。常に一回限りの人生を肌で感じながら責任感と主体性、そして生きがいを感じる存在。そんなキャラクター・レベルの私を俯瞰的に捉えるプレイヤー・レベルの私が存在することも確かである。人生という無限の選択肢の中から、何を選択したらよいのかという選択に絶えず迫られる存在。両者は乖離した存在であるものの、プレイヤー・レベルの私が前面化している限りにおいては、特に問題なく生活を送ることができた。
 しかし、現在の僕の状況は逆転している。キャラクター・レベルの私は崩壊し、責任感も主体性も、そしてそこから感じられるであろう生きがいも欠如した魂の抜け殻のような存在。そうなるとプレイヤー・レベルの私が前面化せざる得なくなる。そして、ゲームにおいて、キャラクターが死んでしまったらプレイヤーがリセットボタンを押すがごとく、プレイヤー・レベルの私はキャラクター・レベルの私のリセットを、転職という手段を使ってを試みようとしているのだ。
 ここで問題なのが、崩壊したキャラクターをどのようにして復活させればよいのかという点である。そもそも、何故キャラクター・レベルの私が崩壊するに至ったのか。それが一番の問題なのだが・・・。
 ・・・しかしながら、プレイヤー・レベルの私の行動は冷酷無比で、薄情な存在でしかなく、そんな自分自身を見るのはあまり気持ちのいいものではないのだが、これこそが本物の自分なんだということは、前々から気付いていたことなのだ。そう、僕は冷たい人間なのだ。とてもね。
 キャラクター・レベルの私とプレイヤー・レベルの私の行動の解離が、他者に誤解を与え、混乱させる。プレイヤー・レベルの私という存在は、本当は冷酷非道で薄情な人間でしかないのに、キャラクター・レベルの私は「良い人」を演じてしまうから、私を統合された存在として捉えている他者にとっては、解離した自分の行動が、酷く不可解なものに映り、混乱を招くのかもしれない。でも、これが私という存在なんだよね。思春期心性を引きずっているだけなのかもしれないけど。
 こんなことでばかりを繰り返しているような気がしないでもないのだけど、解離した自己が他者を混乱させ、そしてそんな他者への迷惑を先読みすることで憂鬱になる自分自身はどうにかしなければならないだろうと思いながら、まだ何も出来てはいないのだ。