何が足りないのか

 ところで、心理的にみれば、洗礼派の道徳のもつ独自な方法的性格は―予定説が排斥されていたために―その根拠を、とりわけ聖霊の働きに対する「待望」という思想におくものだった。これは、今日でもクエイカー派の「集会」の特徴をなしており、バークリーのみごとな分析によると、この沈黙が目的とするのは、「自然の」ままの人間の衝動的で非合理的なもの、激情や主観的傾向を克服することであり、神がそこでのみ語り給うあの魂における深い静けさを造り出すために、人間は沈黙しなければならない、というのである。<中略>

しかし、洗礼派の宗教意識が正常な世俗的職業生活に流れこむとともに、被造物が沈黙するときにのみ神が語り給うとの思想は、明らかに、行為を冷静に考量させ、良心の個人的吟味を注意ぶかくおこなわせる、という方向への教育を意味するものとなった。実際、このような平静で、幻想をもたず、すぐれて良心的という性格を、後期洗礼派教団は生活実践の中で身につけてしまった。とりわけ、クエイカー派のばあいには顕著だった。現世の徹底的な呪術からの解放は、内面的に、世俗的禁欲に向かう以外、他の道を許さなかったのだ。


マックス・ウェーバー 1920  DIE PROTESTANTISCHE ETHIK UND DER>>GEIST<