コミュニケーション

久しぶりに受診。前回の診察から5週間が経っていた。でも薬はまだ残ってるし、特別話す事も無い。それでも、受診したのは誰かと話したかったからだろうか。


ネタも無いので、この一ヶ月順調に過ごしていることを告げる。いつもは、「何か悩み事はありますか」と尋ねる先生に、特に何も無いことを話して終了する診察。今日は、いつもと違った。「特別な悩みは無いです」と答える僕に対して、先生は「それでも、何か1つ悩み事を挙げるとしたら」と訊いてきた。


すべてを話すわけじゃないけど、僕は日頃から感じていることを口にした。それは、「どうやって生きていけばいいのか分からない」という漠然とした不安。それは、「生きていても死んでしまってもどちらでもいい」といった無意味な風景。


先生は答えてくれた。生きるのが楽しくて生きている人なんて、そんなにはいない。自分のためというより、誰かのために生きている部分が大きい。人間は生かされているようなものだから。


ありきたりな答えなのかもしれない。特に、僕の何かが変わるわけでもない。今思えば、「それでも生きているのはなぜ?」って訊くこともできたのだけど。そのとき、そういう気持ちにならなかったのは、目の前にいる人が、何かを答えてくれること。そのことが僕にとって必要なことだったからだろうか。


答えが必要なんじゃない。答えは疑問を生み出すもので、その無限ループからは抜け出せそうに無いから。コミュニケーションそれ自体が、生きるためには必要なのかもしれない。すべての疑問を抱えながら、生かされた存在でありながら、それでも生きることが可能であるということ。コミュニケーションとはそれを可能にするものなのかもしれない。