足りないもの

『分岐点に立つ引きこもり』を読了

explanation 回顧と展望 樋口明彦  より抜粋

 われわれの眼前には、選びきれないほど無数の選択肢が広がっている。将来何をすべきなのか、この仕事は自分に向いているのか、この仕事は安定しているのか、このパートナーとうまくいくのか……。たとえ、ある選択肢を選んだところで、それが正解とは限らない。終身雇用の終焉、雇用形態の多様化、複雑になる家族やパートナー関係など、生活の不安定化が進むと、一つの選択が安定をもたらさないのだ。選択肢は決して完結することなく、更なる選択肢へと枝分かれしていく。未来の不透明性は増すばかりである。

(中略)

 目標は、個人の自己選択能力を強化することではなく、選択肢そのものの現象にある。学校教育や職業教育の職務は、「やりたいこと」という無限定オプションかを、「できること」という自己限定オプションに近づけることになるだろう。

(中略)

社会へ押し出す圧力に満ちた教育や、内部競争の激しい就労という排他的な空間ではなく、社会活動・アート・地域福祉などを目的とするNPOや生涯教育の機会などの包摂的な空間の創出が望まれる……。

経済的に独立することは必要なことだけど、自分の価値とか尊厳とか、なんていったらいいんだろう、そういったものを満たすことも必要だから。後者が存在しなければ、「なんで働いてるんだろう」的な不毛な問いを繰り返すことにもなりかねない。というか、現在の僕はそんな感じなのだが…。


 ニート関連の書籍を読んで思うこと。それは、僕が必要としてる何かが欠けているってこと。そのことは、「ニート」が「ひきこもり」とは違って、労働経済系の語彙であること自体が象徴していることでもあるのだけれど、問題が「若者を就職させればOK」みたいな部分に終始しているような印象を持ってしまう。もちろん、親御さんや援助者はそれを望んでいるだろうし、当事者も否定しないだろうから、それは必要なことだとは思う。
 僕自身は書籍等で描かれている「ひきこもり」や「ニート」の方のメンタリティに、とても近いものを感じるから、それらの本を読むのだけれど。でも、僕自身は、状態像も、統計上も「ニート」には該当しない。現在、働いている僕に「働けるようになればすべてOK」みたいなこと言われても、困ってしまう。
 分かりやすいし、政府もお金出すから盛り上がってるのかもしれないけど。僕が欲しいのはそれじゃないんだよね(それは僕が「ニート」じゃないからだけど)。