脱社会的存在として

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■園監督はその先があると言う。〈社会〉の中の自分と〈社会〉に収まらない自分を両方容認できる場合に限り救われるのだ、と。監督によれば、〈社会〉に収まらない自分が「脱社会的存在」なのではなく、両方容認できる存在が「脱社会的存在」だということになる。
■そうした「脱社会的存在」になれれば良いのだと監督は言う。〈社会〉を過剰に否定しようとする時点で彼ないし彼らは〈社会〉に内在し尽くしている。真に「脱社会的」であれば、〈社会〉と内と外を、区別しながらも等価に生きられる筈ではないか。そう語った。

 脱社会化することなど可能なのだろうか。社会の内側と外側を等価に生きることなど。僕の場合、社会の内側で自己を確立できていない時点で脱社会的存在としての生きる条件を満たしていないことになるだろう。
 イマの僕にとっては社会のすべてが空虚だ。社会の内側で起こっていることがすべて無意味に感じられる。周囲の人間の振る舞いの意味が理解できない。なぜ人は働き、なぜ人は笑い、なぜ人は生きるのか。僕には分からない。
 社会を生きることは、価値観を選択することだと思っている。そして、僕は何も選択できずに立ちすくんでいる。これは強迫観念だろうか? そして、この強迫観念こそが「社会に内在し尽くしていること」の証なのだろうか。本当は、適度にまったり生きることが出来ればよいのに、僕にはそれが出来ない。出来そうにもない。


 先日のサウンドデモの集会で、一人の女性が「イスラエルの侵略・虐殺に反対する」というビラを配っていた。ビラには、虐殺の現状を写した写真と彼女の思いだけがつづられていた。そこに刻まれた文章は、ただ彼女の気持ちを吐露したものでしかなかったし、戦略的な有効性とった観点で検討する価値も皆無だった。それは「表現」というより「表出」でしかないと思った。イマでもその気持ちは変わらない。だけど、「表出」すること自体は無意味ではないし、「表出」できる彼女に憧れを抱いた。
 彼女は、イスラエルの問題を自分の問題として生きている。国際社会問題と繋がって生きているように見える彼女が、僕にはとても羨ましかった。何かを感じることができること、それ自体に憧れを抱いた。レバノンで死に絶える少女の写真が、彼女には目の前で起こっている悲劇に見えるのだろうか? 僕には、そんな感情が芽生えないのに。とても羨ましいと思った。
 僕は彼女になりたいのだろうか? 僕と対極に位置するように思える彼女も、実は僕と同じような存在で、ただ確率的に起こる現象の結果が違うだけなのだろうか? 社会で生きることを前に立ちすくみながら、何も選択できずにいる僕には、イマ何が必要なのだろうか。
 それは、選択肢を増やすことだろうか? たとえ、選択肢を選ぶことができたとしても、過剰に社会を生きることなど、たぶん不可能だと感じる自分がいる。社会に収まりきれない何かが残ってしまうと。それを無理に社会に期待してしまうから、僕は何も選択することが出来ないのだろうか。そうだとしたら、上手く社会と世界を生きる方法を身に付けるしかないのだろう。それが「脱社会的存在」化することなのだろうか? 
 いずれにしろ、何かが必要なことは変わりないのだけど。僕に欠如しているものはなんなのだろうか?