潜在的ニート

 こんな状況から、どうやって抜け出したらいいの?

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

 ところで、私の考えでは、「やりたいこと」を巡る若者の自意識の悪循環や、それに伴う雇用の流動化、という問題は、なにもフリーターやニートといった人たちのみにあてはまるものではない。むしろこうした傾向は、現在正規雇用に就いている人も含めた、若者全体の問題として捉えられるべきものなのではないか。
 たとえは、『AERA』2004年11月8日号の記事「20代をおおう『心はニート』自信過小、自分探し世代の憂鬱」では、現在の職を「できればやめたい」と思っている、いわゆる「潜在的ニート」が20代の間に広がっている、と述べられている。せっかく就いた正規雇用を、これは本当に「自分のやりたいこと」だったのだろうか、と逡巡し、結局離職してしまうというのだ。
 若い世代が「本当にやりたいこと」という、結果的には空転する意欲をバネにしてしか、勤労への動機づけを得られない状況について・・・

 繰り返すとおり、彼らの語る「やりたいこと」という論理は、短期的でかつ暫定的な、一瞬の盛り上がりによってしか得られない漠然としたものなのである。それゆえ、彼らが社会人として長く働いていこうと思えば、一瞬の盛り上がりが何度でも訪れるような、不断の自己分析を自身に課さねばならなくなる。

 「宿命論」とはすなわち「現在の状況をそのまま受け入れる」という意識だが、実際には渋谷が述べる「ハイ・テンションな自己啓発」(=いつか本当にやりたいことを見つけるんだ!)と「宿命論」(=やりたいことなんて見つからないんだ)の間を右往左往しながら、暫定的な正社員だったり、フリーターだったり、無業者だったりするというのが、若者の雇用を巡る問題の構図なのではないか。

 言ってみれば現代の若者は、勤労に際して(比喩的な意味での)不断の「躁鬱状態」に置かれている。こうした状態を何とか支え続けるためにこそ、「やりたいこと」のような目標は、ずっと遠くに設定されていなければならないのではないだろうか。冷静になってよく考えてみれば、「やりたいこと」も「働くべき理由」も、内発的には存在しない。だからこそ、客観的には実現不可能な遠い目標を設定し、そうした「漠然としたやりたいこと」へ向けて、テンションを高めていかなければならないのである。