『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』読了

 ピュウリタンは天職人たらんと欲した。―われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内道徳を支配し始めるとともに、こんどは、非有機的・非機械的生産の技術的・経済的条件に結び付けられた近代的機材秩序の、あの協力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。
 <中略>
 バックスターの見解によると、外物についての配慮はただ「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその日を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は―最終的にか否か、誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。
 <中略>
 こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」>>letzte Menschen<<にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門家、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。―


マックス・ウェーバー 1920  DIE PROTESTANTISCHE ETHIK UND DER>>GEIST<