何にも無い一日を終えること

 午後2時まで惰眠を貪り、呆然とした頭のままシャワーを浴びた。取り立ててすべきことも、やりたいこともなく、空っぽの頭でインターネットの画面をクリックしてで時間を潰していた。
 いや、すべきことはあるのだ。ただ一つ。乗り越えるべき壁が。これからどうすべきなのか。これまでのことをどう総括すればよいのか。考えるべきことは、そういうこと。この件を片付けない限り、一歩も前へは進めないだろうから。自分の気持ちを整理して、当面の価値観をはっきりと確立していかなければ、転職活動どころではないだろう。
 僕はこれまで何をしてきたのだろうか。そして、これから何をしたいのだろうか。そのために、何をすべきなのだろうか。27歳にもなっていながら、僕の心は、いまだに思春期真っ只中のようで、いつまでたっても精神的に成長することができないでいる。それは、ただ、人間として成長する機会を自らの意思で拒絶し続けてきた結果なのだからしかたのないことだろう。いまは、その結果を素直に受け止め、認めるしかないのだ。過去を悔やんでも何も始まらない。とういうか、特に悔やむべき事項も思い当たらないのだが。これが僕の必然かもしれないと。たまに、そんな気分になる。
 そんな思春期心性真っ只中の自分は、これまでの人生を総括すべく、過去の日記を閲覧したりしていた。そこに記述されていることは苦悩や愚痴ばかり。文章表現のレベルは徐々に向上しているような気がするものの、内容の方はたいした変わり栄えを見せることもない。というようりは序々に悪化しているといった方が正しいのかもしれない。何も成長しない自分自身への葛藤が閉塞感を増し、袋小路に突き当たって壁の前で立ちすくんでいる感覚を拭い去ることはできない。何かを変える必要があることは分かっているのだけど、具体的に行動するまでには至っておらず、もどかしさだけが蓄積されていく。成長していない自分自身に半ば呆れつつも、これがイマの結果なのだと思うしかないのだ。
 それからもう一つ。衝動が行動に直に結びついてしまうような危機感を感じずにはいられない。本来ならば、衝動的感情は一旦保留し、検討する作業が必要なのだろうけど、そのような緩衝機能が欠如している気がしてならない。衝動的感情は「○○しなくてはならない」という瞬間的で説明不可能は「思い込み」として突如噴出し、それは何の検討作業を通過することなく、僕を行動へと駆り立てる。当然、それは論理的に説明可能なようなものではなく、非常に浅はかで空虚な薄っぺらい意思であり、ある種の「症状」として認識すべきものなのかもしれない。そうした衝動的な行動は、周囲に迷惑をかけ、結果として自己嫌悪を繰り返すだけなのだ。ただ、その「症状」の背後に存在するのは、現実に対する不満であることは間違いなく、この点をしっかりと見つめなおす作業が必要なのだろう。